札幌南高13期東京同期会
13期元気会の仲間の交流の場
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黄砂に霞む満月と桜
早春の午後
昭和歌謡をYouTubeで楽しむ

最近、昭和歌謡をYouTubeで楽しんでいます。
著作権問題との関係はよくわかりませんが、懐メロの昭和歌謡はふんだんに見つかります。
レコード会社が著作権でうるさいことを言ってYouTubeか動画を消去して見えなくすると、世代交代もあって、
昭和の大スターも世の中に存在しないことになるので、懐メロに関しては、著作権のことを
追求しなくなったのかな、と思っています。
1.このところ、よく観るのは「北狼ブログ」というYouTubeチャンネル。
例えば、下記番組は1時間以上楽しめます。
石原裕次郎集 https://youtu.be/EI-mLZC1uzk
昭和歌謡大全集(第7弾・1夜) https://youtu.be/2UDbZ-Psqsg
2.昭和歌謡をYouTubeで聴くときの機器
(1)短い時間なら、パソコンかタブレットで、イヤホンで聴きます。
イヤホンを使うと音質が格段に向上しますが、耳の健康に悪いそうなので、1時間以内に納めています。
(2)ゆっくり聴くときは、居間のパナソニックの大型テレビを利用します。
スマートテレビでインターネット対応なので、ネット動画を視聴できます。
(3)前のテレビの時は、パソコンからグーグルのクロームキャスト(値段数千円)を使ってYouTubeを聴いていました。
Chromecast の使い方は下記ネット記事をお読み下さい。
「YouTubeの映像をテレビで見れる! Chromecast の使い方」
https://plus1world.com/chromecast-youtube
(6組 佐藤記)

とぼとぼと馬車馬のごとく-19 タイ王国へ
23歳から36歳までの、広島での経験を中心に書いてきたが、前回の「裁判所へ」には、いくつかの追加の思い出もあるが、裁判沙汰はあまり思い出したくもないので一話でやめて、もっと明るい話に移りたい。
私の場合、何でも突然始まる。ある日、宮島の対岸にできた新庁舎に出勤すると、隣の研究室の室長から声がかかる。「なあ、あんたタイに行って魚病の事、教えてやってくれないかな?」「なんのお話ですか?」「あのな、今、タイで水産増殖プロジェクトの話が持ち上がって、その企画を頼まれたのだけれど、一応、種苗生産、栄養、魚病の講義と実習を中心に考えているところ。ついては、その魚病を引き受けてくれないかな」「それは良いですが、私はタイ語はもちろん英語も話せませんよ。何語で話すんですか?」「JICAプロだから、現地にはJICAの専門家もいるし、日本語でいいんじゃないか?」
こんな会話から始まったタイでの魚病研修の講師の話は、どんどん進んでいき翌年の7月にはタイに行くことになった。私にとっては初めての外国出張である。場所はタイ南部のソンクラ。期間は約30日。ひと月も所を空けるのは捕鯨監督官以来。それでなくても忙しいのに、と反対の声もあったが、隣の研究室長の粘り強い説得「彼には、もっと広く色々勉強させたほうがいい。これからは海外の経験も必要」「これからの研究者は英語が強くないと。実際、一度でも海外に行くと嫌でも英語の勉強をするようになる」等々。隣の研究室長は、当時の全国の水産研究所全体でも屈指の英語使い。研究所の多くの人が彼に英語では世話になっていた。私は、実習はともかく講義はどうしようかと、多少は考えたが、いまさら英会話の勉強をしても間に合わないし、なるようにしかならない、と覚悟しただけ。それよりタイの食べ物や風物、歴史の資料を集めた。タイは言うまでもなく山田長政の前から日本とは交流があり、古い王国で、周辺国とは古代より何度も戦ってきたが、一度も占領されたことはなく、長く独立を保っている。何となく面白そうと思った。
当時は、バンコックに着いたら、まず、大使館に挨拶に行き、次いでJICA事務所で打ち合わせて、翌日、ハジャイまで飛行機に乗り、ハジャイ空港からは車でソンクラへ。実習のため、携帯荷物にたくさんの注射器、薬品などが入っていて通関を心配したが、公用旅券のためか何事もなく通過。麻薬の取り締まりでは厳しい国。危なかったのかもしれない。予め、断っておくべきだったが、これから以降、現地の事物のカタカナ表記は全て私の耳に聞こえたように表記している。例えば「ハジャイ」は、強いて言えば「ハート・ヤイ」と表記すべきかもしれないが私の耳には「ハジャイ」としか聞こえない。後にイランの事も書く機会があるかもしれないが、イランの都市の名前は日本語表記が不可能なことが多い。だからと言って、イギリス(という国はないが)のようにイタリアの都市すべてを英語表示し、発音するのは失礼というもの。もしどうしてもというなら「バンコック」も英語で表示してみては?正式のバンコックの名称は世界一長い。おそらく一ページ以上必要となることだろう。バンコックの国際空港は、今は、新しい空港になったが、私が最初に訪れた時は、まだ、古いドムアン国際空港。大雨の後とかで、空港は全面浅い田んぼ状態。その中に滑走路がキラキラしながら伸びている。私は、それ以降、五、六十の国際空港を利用したが、あの最初のドムアン空港の安心感は特別だった。まるで薄緑の芝生に誘われるような安心感。これに匹敵するのは、後年訪れたチリ南部、コジャイケの一面クサフジ(ルピナス)に彩られた空港くらいである。どの空港も特有のにおいを持つ。インドネシア、ジャカルタの空港は丁子の匂い。ドムアンはナンプラーの匂い。昔の羽田はどぶの匂いがした。ドムアンからホテルまでは車で40分くらい。混雑と喧騒の中を抜けてバンコクの中心街へ。通りには日本の銀行も何行かあり商店街で便利なところであった。それからはよほどのことがない限り、バンコックに来るたびにそのホテルを利用した。人によっては、色々なホテルを楽しむ派もいるが、私は、ホテル内だけではなく、ホテル周辺も馴染んだほうがよく、定宿派である。これは国内出張でも同じ。
続きは「続きを読む」をクリックしてお読みください。
私の場合、何でも突然始まる。ある日、宮島の対岸にできた新庁舎に出勤すると、隣の研究室の室長から声がかかる。「なあ、あんたタイに行って魚病の事、教えてやってくれないかな?」「なんのお話ですか?」「あのな、今、タイで水産増殖プロジェクトの話が持ち上がって、その企画を頼まれたのだけれど、一応、種苗生産、栄養、魚病の講義と実習を中心に考えているところ。ついては、その魚病を引き受けてくれないかな」「それは良いですが、私はタイ語はもちろん英語も話せませんよ。何語で話すんですか?」「JICAプロだから、現地にはJICAの専門家もいるし、日本語でいいんじゃないか?」
こんな会話から始まったタイでの魚病研修の講師の話は、どんどん進んでいき翌年の7月にはタイに行くことになった。私にとっては初めての外国出張である。場所はタイ南部のソンクラ。期間は約30日。ひと月も所を空けるのは捕鯨監督官以来。それでなくても忙しいのに、と反対の声もあったが、隣の研究室長の粘り強い説得「彼には、もっと広く色々勉強させたほうがいい。これからは海外の経験も必要」「これからの研究者は英語が強くないと。実際、一度でも海外に行くと嫌でも英語の勉強をするようになる」等々。隣の研究室長は、当時の全国の水産研究所全体でも屈指の英語使い。研究所の多くの人が彼に英語では世話になっていた。私は、実習はともかく講義はどうしようかと、多少は考えたが、いまさら英会話の勉強をしても間に合わないし、なるようにしかならない、と覚悟しただけ。それよりタイの食べ物や風物、歴史の資料を集めた。タイは言うまでもなく山田長政の前から日本とは交流があり、古い王国で、周辺国とは古代より何度も戦ってきたが、一度も占領されたことはなく、長く独立を保っている。何となく面白そうと思った。
当時は、バンコックに着いたら、まず、大使館に挨拶に行き、次いでJICA事務所で打ち合わせて、翌日、ハジャイまで飛行機に乗り、ハジャイ空港からは車でソンクラへ。実習のため、携帯荷物にたくさんの注射器、薬品などが入っていて通関を心配したが、公用旅券のためか何事もなく通過。麻薬の取り締まりでは厳しい国。危なかったのかもしれない。予め、断っておくべきだったが、これから以降、現地の事物のカタカナ表記は全て私の耳に聞こえたように表記している。例えば「ハジャイ」は、強いて言えば「ハート・ヤイ」と表記すべきかもしれないが私の耳には「ハジャイ」としか聞こえない。後にイランの事も書く機会があるかもしれないが、イランの都市の名前は日本語表記が不可能なことが多い。だからと言って、イギリス(という国はないが)のようにイタリアの都市すべてを英語表示し、発音するのは失礼というもの。もしどうしてもというなら「バンコック」も英語で表示してみては?正式のバンコックの名称は世界一長い。おそらく一ページ以上必要となることだろう。バンコックの国際空港は、今は、新しい空港になったが、私が最初に訪れた時は、まだ、古いドムアン国際空港。大雨の後とかで、空港は全面浅い田んぼ状態。その中に滑走路がキラキラしながら伸びている。私は、それ以降、五、六十の国際空港を利用したが、あの最初のドムアン空港の安心感は特別だった。まるで薄緑の芝生に誘われるような安心感。これに匹敵するのは、後年訪れたチリ南部、コジャイケの一面クサフジ(ルピナス)に彩られた空港くらいである。どの空港も特有のにおいを持つ。インドネシア、ジャカルタの空港は丁子の匂い。ドムアンはナンプラーの匂い。昔の羽田はどぶの匂いがした。ドムアンからホテルまでは車で40分くらい。混雑と喧騒の中を抜けてバンコクの中心街へ。通りには日本の銀行も何行かあり商店街で便利なところであった。それからはよほどのことがない限り、バンコックに来るたびにそのホテルを利用した。人によっては、色々なホテルを楽しむ派もいるが、私は、ホテル内だけではなく、ホテル周辺も馴染んだほうがよく、定宿派である。これは国内出張でも同じ。
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「百人一首 平安の雅に浸る」 30. 壬生忠岑
有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし
歌の拡大解釈: 少し前まで、あれほど心を通わせていた二人なのに、あの朝のあなたのつれない素振に、私の心はすっかり打ち砕かれてしまいました。いったい何があったというのでしょう。あの日以来、夜明け時ともなると、西の空にぼんやりと残っている有明の月のように、切なくも割り切れない気持ちにとりつかれてしまう私です。
作者と歌の背景: 壬生忠岑(みぶのただみね)もまた『古今集』撰者の一人です。壬生一族についてはこれといった資料がなく、よくわからないと言うのが実情のようです。忠岑に関しても官位・職位がともに低く、生没年もわかっていません。しかし、歌人としての評価は、紀貫之、凡河内躬恒に次ぐ高さで、『古今集』に36首が採取されています。
忠岑はこの歌が醍醐天皇の目に留まったことで、随身(警護の武官)に抜擢され昇殿が許されました。889年の『寛平御時后宮歌合』には、当代を代表する歌人の一人として参加しました。907年の宇多法皇の大堰川(おおいがわ)御幸では、紀貫之や凡河内躬恒などと随行し、9つの下題に63首の歌を詠み、法皇に献上したと記録されています。
その後、大納言・藤原定国に仕え、定国が酒に酔って左大臣・藤原師尹(もろただ)の邸に立ち寄ったところ、師尹が「どこの帰りに寄ったのか」と問いただしたのに対し、主人に代わり忠岑が「かささぎの渡せる橋の霜の上を 夜半に踏み分けことさらにこそ」と、大伴家持の歌を本歌取りして詠じ、師尹の機嫌を直したとの逸話が残っています。
〔令和新時代の一人百首〕
歌才で世渡りをした壬生忠岑を想いてよめる まこと
ただみねはみぶんの低き峰なれど 歌でその名を高峰となす
2021年3月(下):アメリカン・ドリームという悪夢
悪夢のような4年間が終わった。ヒューマン・ファーストは永遠の夢物語か?

文:6組・林+写真:1組・桐村
歌の拡大解釈: 少し前まで、あれほど心を通わせていた二人なのに、あの朝のあなたのつれない素振に、私の心はすっかり打ち砕かれてしまいました。いったい何があったというのでしょう。あの日以来、夜明け時ともなると、西の空にぼんやりと残っている有明の月のように、切なくも割り切れない気持ちにとりつかれてしまう私です。
作者と歌の背景: 壬生忠岑(みぶのただみね)もまた『古今集』撰者の一人です。壬生一族についてはこれといった資料がなく、よくわからないと言うのが実情のようです。忠岑に関しても官位・職位がともに低く、生没年もわかっていません。しかし、歌人としての評価は、紀貫之、凡河内躬恒に次ぐ高さで、『古今集』に36首が採取されています。
忠岑はこの歌が醍醐天皇の目に留まったことで、随身(警護の武官)に抜擢され昇殿が許されました。889年の『寛平御時后宮歌合』には、当代を代表する歌人の一人として参加しました。907年の宇多法皇の大堰川(おおいがわ)御幸では、紀貫之や凡河内躬恒などと随行し、9つの下題に63首の歌を詠み、法皇に献上したと記録されています。
その後、大納言・藤原定国に仕え、定国が酒に酔って左大臣・藤原師尹(もろただ)の邸に立ち寄ったところ、師尹が「どこの帰りに寄ったのか」と問いただしたのに対し、主人に代わり忠岑が「かささぎの渡せる橋の霜の上を 夜半に踏み分けことさらにこそ」と、大伴家持の歌を本歌取りして詠じ、師尹の機嫌を直したとの逸話が残っています。
〔令和新時代の一人百首〕
歌才で世渡りをした壬生忠岑を想いてよめる まこと
ただみねはみぶんの低き峰なれど 歌でその名を高峰となす
2021年3月(下):アメリカン・ドリームという悪夢
悪夢のような4年間が終わった。ヒューマン・ファーストは永遠の夢物語か?

文:6組・林+写真:1組・桐村